ニコニコ宣言を読む(2)

http://www.nicovideo.jp/static/base/declaration.html
思いがこもっているのはわかるけれど、ちょっと悪文。生硬な感じもするけど、続き。



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第二宣言 ニコニコはすべてのものにコメントをつけられるサービスを目指します

われわれは人間から知識だけを分離して抽出、精製する集合知は目指しません。われわれが収集するのは知識ではなく人間の感情そのものです。

われわれは人間の生きるという行為をネット上での新しいコミュニケーション手段を提供することで実現します。それはライフログとしてデータをとることが目的では決してありません。人間の営みの記憶としてデータが生成されるだけなのです。データを保存するのは分析・集計するためではなく、フォトアルバムのように思い出を残すためでしょう。

なんというか「人間」という言葉はもっと階層の深い言葉だと思う。文明論的、生物学的な話をする際の単位。ここの話は、あくまでネット上の文化活動と、それによって普通の人々の生活、人生がどういうふうに変わっていくか、という話なのだから、ここで「人間」という主語を使うと、場にそぐわない、大それた感じになってしまう。
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「フォトアルバム」のように、という比喩がおもしろいかな。
たぶん、後段のコメントの話とつなげると、コメントは祭り囃子みたいなもので、それをネット上に記憶する、という感じの理解でいいのかな。
コメントはデータとして、それがどういう事を意味しているのか、と分析されるのではなく、ある種の盛り上がったしるし、動画上に残った、喝采の記憶として保存すると。

上記を実現するために、まずネットで人間の感情を表現するもっとも基本的なコミュニケーション手段としては、なにかに対してコメントをつけるという行為を選択しました。

普通の生活の中で、挨拶したり、ちょっと言葉を交わしたりする。そういういちばん基本的な、根っこにあるコミュニケーションは、ネット上においては、コメントをつけることである、という。
これはそうかもしれない。ちょっとしたコメントをつけたり、それに対して応答があったり、というのがネット上のコミュニケーションの基本だと。

今後、人間の感情表現の手段という文脈から、コメントをつけるという概念はもっと多様化され拡張されるかもしれませんが、われわれが追求しつづけるものは人間の生きるという行為をネット上でいかに実現するかということです。

コメントをつける、という概念が多様化されるころには、拡張現実デスクトップが当たり前になっていて、入力デバイスもキーボードじゃないかもね。